本、パンフレット、ポスター、年賀状、カレンダー…紙と印刷は、日常から特別な日まで私たちの生活に欠かせないものですよね。今ではこんなに身近にある紙ですが、どのように作られていたのか、昔はどうやって印刷されていたのか知っていますか?
紙の歴史はなんと紀元前の中国にまでさかのぼります。普段何気なく手にしている紙がこんなに長い歴史を持っているなんて面白いですよね。また、中国で発明された紙がなぜ日本に伝わり広まっていったのか…
この記事では、紙や印刷技術が歴史の中でどうやって活かされ、発展してきたのか
をご紹介します!
1.紙の成り立ち
1-1 用紙の発明以前
紙が発明されるよりも前から、人々には文字を残すための手段がありました。それは、「石」や「皮」、「木」などそれぞれの地域での生活に馴染み深いものがほとんどです。
パピルス
用紙の「ペーパー(paper)」の語源にもなっているパピルスは、今から約5000年前の古代エジプトで使用されていました。
縦に裂いたパピルスの茎を縦、横と格子状に並べ、水と圧力を加えて圧着させます。それを乾燥させ、貝殻や象牙、石で表面を磨いて仕上げたものがパピルス紙です。
見た目は用紙と似ていますが、「漉く」工程がないので厳密には紙に分類されません。
軽くて丈夫ではあるものの湿気に弱く、さらに乾燥しすぎてもパラパラと崩れてしまうので製本には向いていません。折り曲げに弱いので、何枚もつなぎ合わせて巻物状にして使用されていました。
羊皮紙
羊皮紙は羊や山羊、牛などの動物の皮を用いたものです。それらを石灰に約1週間以上浸けて毛や脂肪を取り除き、専用の木枠に張って極限までに伸ばします。
表面を軽石などで滑らかにしながら乾燥させると、羊皮紙の完成です。羊皮紙は原料に植物を使用していなので、こちらも紙に分類されません。
羊皮紙の特徴は、下記の通りです。
・強度があり、折り加工・綴じ加工ができる
・張りがあって、書き心地が良い
・一度書いた文字は消えにくいが、誤字は表面を削って消せる
・湿気によって多少はうねるが、虫やカビに強い
生産コストはかかるものの、製本や保存に向いていないパピルスと比べて、美しく丈夫な羊皮紙がメジャーになっていきました。
木簡・竹簡
古代中国や日本で広く使用されていた木簡・竹簡は、木や竹を細長く削った短冊形の木を紐でまとめたものです。
木簡・竹簡は原料が簡単に手に入るうえに、丈夫で誤字は削って修正ができるので、用紙が普及するまで日常的に長く使用されていました。公的な文書から習書(文字の練習)や荷札、呪符(災いを避けるために文字や記号をしるしたもの)まで広く用いられました。
用紙が発明され普及していく中でも、貴重で手に入りにくい紙と併用されていた時期もあり、木簡・竹簡は一般に広く根付いていたようです。
1-2 用紙の発明以後
紀元前2世紀頃の中国で宮廷の役人だった蔡倫が紙の製法を確立しました。
それまでの紙は、文字が書けるほどのクオリティではかったので、貴重品などを包む包装材料として使用されていました。そこで蔡倫は試行錯誤の末、麻や桑などの樹皮、漁網などを用いて紙を作り、皇帝に献上しました。これまで紙の製造方法は統一されていませんでしたが、蔡倫の製法で作られた紙は「蔡侯紙」と呼ばれ、木簡・竹簡に代わって中国全土に広まっていきました。
その後、材料や製法が改良されながら世界中のさまざまな地域へ伝播していきました。
ヨーロッパには12世紀に製紙法が伝わったとされています。その頃の、紙の原料は木綿のぼろ布でした。しかし、後述する印刷技術の発展により紙の需要は一気に高まり、原料不足が問題となります。
新たな原料を探していく中で、1719年フランスの科学者レオミュールがスズメバチの巣作りをヒントにして、木材を原料とした紙の製造を創案します。その後、1765年にドイツ人のシェッフェルが実際に作成し、1840年にドイツ人のケラーによって木材を機械で潰してパルプを作る方法が確立されます。
19世紀になって、やっとパルプを原料とした高品質な紙が大量に作れるようになりました。
最初にレオミュールが発明してから実用化されるまで、100年以上も経っているんですね!
2.日本における紙の伝承・発展
2-1 和紙の起こり
日本へは、610年に高句麗の僧である曇徴によって、墨や筆と一緒に製紙法が伝えられました(紙自体は製紙法が伝えられる以前に書物として伝播していたという説もあります)。
さらに、仏教の伝来とともに、仏道修行として仏典を書写する写経が盛んになりました。
そのため、紙の需要が非常に高まり、国内で紙質の向上のために改良されていきました。原料に楮や三椏、雁皮の靭皮(樹木の外皮より内側にある柔らかな部分)を使用するなど日本独自の改良を重ね、和紙が発展していきました。
また、称徳天皇の発願により製作され770年に完成した「百万塔陀羅尼」は、現存する世界最古の印刷物です。約20センチの木製の塔の中には、麻、黄麻、殻を使用した和紙に印刷された陀羅尼経が収納されています。
大量の塔の中に収められた陀羅尼経は、書写されたのではなく、木版を使用して刷られたと考えられています。しかし、木版だと100万もある陀羅尼経を刷るには耐久性がないので、金属版や銅版が使われていたのではないかとも推測され、いまも判明していません。
平安時代では、貴族の間で和歌や漢詩だけでなく巻物も盛んになり、紙の需要が急速に上がっていきました。
和紙にも薄さや強さが求められるようになり、上質な和紙をつくる技術が発達していくなかで、京都に「紙屋院」という官立の製紙工場が建てられました。ここでは、日本独自の技術の縦や横に揺すりながら紙を漉く「流し漉き」が登場しました。さらにこの頃には、使用済みの和紙を溶かして漉き直す「漉き返し」といった製法のエコな和紙も生み出されています。
江戸時代にもなると、書物だけでなくだけでなく、傘や障子、ちり紙といった日用品から、浮世絵やかるたなど庶民にも広く利用されていきました。
2-2 近代製紙産業の起こり
新聞などの発行が増え、ますます紙の需要が高まっていた明治時代。
和紙は、さまざまな工夫と改良により品質が向上していきましたが、主に手作業で作っていたため、生産が追い付きませんでした。
そんななか、西洋から洋紙の製紙技術が伝わりました。1872年には、日本で初めて製紙会社「有恒社」が創立されています。
はじめは生産コストがかかり品質も不十分だった国産洋紙ですが、国内外での技術開発のおかげでどんどん発展していきました。
機械により大量生産が可能な洋紙の需要は増大しました。それに伴って製紙工場は全国各地に進出し、製紙産業はますます盛んになっていったのです。
3.印刷の成り立ち
3-1 活字の誕生
日本に紙の製法が伝わった7世紀ごろ、中国では木版印刷が行われていたと言われています。木版印刷と仏教には切っても切り離せない繋がりがあるのです。
同一面にたくさんの仏像を描いた「千体仏」を作るため、仏像に墨を塗り、その上に紙をのせて摺る手法がとられました。これが木版印刷の元となります。
多くの国民に仏教を伝えるため、木版印刷を活用したくさんの仏教経典が作成されました。
木版印刷は、一度作成した木版を使えば何度も同じものを摺ることができます。しかし、木版の作成は一つの文章を一つの版に彫るため、一文字でも間違いが許されず、大変手間のかかる作業でした。
そこで登場したのが「活字」です。
活字とは、一文字ずつにわけて彫った凸型の字型です。これらを組み合わせてさまざまな文章が作れるので、とても重宝されました。
はじめは粘土で作られていましたが、14世紀頃には金属活字が発明されました。
しかし、漢字が使われる中国で活字印刷するためには多くの活字が必要となります。そのため、手間とコストがかかり金属活字はあまり普及しませんでした。
ヨーロッパでの活字の誕生は、中国より後のことです。しかし、文字数の少ないアルファベットは活字と非常に相性が良く、急速に発展・普及していきました。
3-2 近代印刷の技術発展
15世紀には、グーテンベルグによって丈夫な金属の活字と活版印刷機が発明されます。
鉛と錫、アンチモンを混ぜた合金からなる金属活字は比較的簡単に、品質の良いものを作ることができました。
さらに、ぶどう搾り機の原理を利用して印刷機を発明したことによって、従来よりもはるかに素早く大量に複製できるようになったのです。
大量生産された本は一般市民にも流通していき、そのおかげで人々に知識や文化が広まったことを考えると、グーテンベルグの印刷技術の影響は計り知れません。
その後、エングレービング技法やエッチング技法などのさまざまな銅版印刷技術を経て、発明されたのが「石版印刷」です。
石版印刷(別名・リトグラフ印刷)は、水と油の反発を利用した印刷で、今までの木版や銅版のように版に凹凸はなく、平らな版が使われます。さまざまな線の表現と豊かな色合いが特徴で、絵画が栄えていたフランスを中心に発展していきました。
はじめはその名の通り版には石灰石が使用されていましたが、亜鉛版、アルミ版へと変化していきました。
そして、印刷方式も進化し、現在のオフセット印刷に繋がっていくのです。
4.日本における印刷技術の伝承・発展
4-1 日本の印刷技術
「2-1 和紙の起こり」でも紹介した「百万塔陀羅尼」は世界最古の印刷物ですが、その後、印刷が日本に普及することはありませんでした。
この頃、文字が読めるのは限られた一部の身分の高い人だけだったので、大量に刷る必要はなく、手書きで複製する「写本」で十分だったからです。
江戸時代になると、商業が盛んになります。商売には「読み・書き・そろばん」が必要とされ、寺子屋が普及していたので庶民でも「読み・書き・そろばん」のできる人々が増えていきました。
寺子屋で使う「稽古本」(今でいう教科書)は、一文字一文字手書きで複製していては間に合いません。そこで木版印刷で大量に刷って、綴ったものを使用していました。
さらに、識字率が上がっていったことで、多くの庶民が読書を楽しむようになり、洒落本や滑稽本が普及するなど、木版印刷も活発になっていきました。
また、木版印刷の技術をより大きく発展させたのは「浮世絵」です。
「浮世絵」と言えば色鮮やかな多色摺りのイメージですが、初めは墨だけで摺られた黒一色の本の挿絵から始まりました。庶民にも刷本が広まったことで、挿絵だけではなくポスターやチラシ、一枚絵の芸術作品まで広く親しまれていました。その過程で、黒一色の「墨摺絵」から、紅や藍を使った複数の色版を使用した「紅摺絵」が生まれました。
当時、庶民の娯楽としてたくさんの人々に楽しまれていた「浮世絵」ですが、一枚一枚の絵に手で着色していては量産できません。そこで、色ごとにそれぞれの版を重ねて摺る「多色摺り」が始まりました。さらに、版を重ねたときに色がズレてしまわないように、木版に正確な位置を示す「見当」という技術ができたことで、10色以上もの色を重ねても美しく鮮やかな絵も可能になりました。
こうして木版印刷の技術が大きく進化していくことで、「浮世絵」が多くの人々に広まり芸術文化も発展していきました。
4-2 近代日本の印刷技術
15世紀頃から世界ではすでに活版印刷が主流で、金属活字や油性インクの使用など、めざましく印刷技術が発達していました。
そんななか、1639~1853年の間、鎖国をしていたため、日本の印刷技術は世界から大きく取り残されてしまいました。
1857年に咸臨丸に乗っていたオランダの活版印刷技師が、長崎出島に印刷所を作りました。
この印刷所で作られた美しい蘭書にとても感動し、この技術で日本語の印刷物を作りたいと研究をはじめたのが、近代活版印刷の父といわれる本木昌造です。
これまで、漢字かな交じりの日本語での活版印刷は難しいとされていました。しかし本木昌造は、オランダから持ち込まれた印刷機と活字をもとに研究し、「ひらがな」「カタカナ」だけでなく画数の多い「漢字」の鉛活字の鋳造に成功しました。
1869年頃には、長崎に活版伝習所が創立され、ここから活版印刷が広まり、印刷技術も発展していきました。
まとめ.奥深い紙と印刷の歴史
紙や印刷は、さまざまな国を巡り長い時間を経て、今の形にたどり着きました。
普段、何気なく使っているものですが、その歴史に想いをはせると壮大な気持ちになりますね。
ペーパーレス化の動きが著しく、紙媒体は今後衰退していくようにも思われます。しかし、信頼性や保管性の高さなど紙媒体ならではのメリットもたくさんあり、完全になくなることはないでしょう。
今もなお、新しい紙や印刷技術の研究がされており、進化し続けています。今後どのような紙や印刷技術が誕生するのか、楽しみです!